

3月23日
自由で幸せな心にふたたび出会うための技法です。
世界には、数えきれないほどの瞑想法があります。
仏教に由来する瞑想、
ヒンドゥー教に由来するヨーガの瞑想、
キリスト教やイスラム神秘主義の瞑想、
中国の老荘思想に由来する瞑想……。
それぞれの文化や伝統の中で、
瞑想はさまざまな形をとりながら発展してきました。
どの瞑想も、ただ目を閉じて静かに座るだけのものではなく、
自分とは何か、本当の自由とは何か、
この誰のものでもない一度きりの私の人生を
心から後悔なく生きるとはどういうことなのか、という
切なる願いから生まれたアートです。
私は、20年以上にわたりあらゆる伝統の瞑想を学び
また特に本職の禅僧として仏教の瞑想を修めてきました。
しかし私の目的は「特定の瞑想法」や「仏教」を教えることではありません。
私は、仏教の瞑想を通してその本質を体得したからこそ
仏教の瞑想の技法を核としますが、
その仏教自体を含むあらゆる考え方に縛られることのない
何ものからも自由で主体的な人生のための瞑想をお伝えしています。
ここでは代表的な仏教の瞑想をいくつか紹介します。
そのひとつは、東南アジア仏教(テーラワーダ仏教)に伝わる瞑想です。
まずは、呼吸や数に集中する準備の瞑想で思考や感情の波を鎮め、
次にその整えられた心で自分の感情や思考のパターンを静かに観察する
本番の観察瞑想をします。
この集中と観察の二段階の瞑想を通じて、自分の人生を苦しくしてきた
無意識に繰り返してしまう思考や感情のクセに気づき、寄りそい、
そして和解し、手放していく瞑想です。
もうひとつが、禅の坐禅です。
東南アジア仏教の瞑想が心を観察し心に気づいていくことで
心を育て、少しづつ積み重ねていくものだとすれば、
禅の坐禅は何も積み重ねず、何も残さない自由を悟り生きるものと言えます。
これについて東南アジアの仏教からは
禅の坐禅はただの集中瞑想、準備段階の瞑想であり、
心を育てず不完全であると批判されることがあります。
そしてこの厳しい批判は、現代のほとんどすべての禅僧や禅寺で指導される
坐禅にそのまま当てはまるものです。
しかし本来の禅が描写する瞑想の在り方はそうではありません。
真に自由で何ものにも縛られることなく、それどころか禅修行や坐禅という
定型化された儀式や権威ともまったく無縁のところにあるものです。
自分で自分を縛る「ねばべき思考」や、
自分の内外の人や物や概念に心を預けようとする「依存心」といった
あらゆる心の働きが完全に落ち、心が何ものにも占められなくなったとき、
そこに現れる「生命のエネルギーそのもの」を自分自身として生きなおすことができる瞑想です。
また、これらの仏教瞑想に加えて、イメージ瞑想という一群があります。
これは、きれいな像や自然の風景、ろうそくの炎など特定の対象を心に描き、
心をいっぱいにすることで深いリラックスや癒しをもたらす瞑想です。
この瞑想は、本質的な自己変革をもたらすものではありませんが、
心を落ち着けストレスを軽減する頓服的な確かな効果がある瞑想です。
私がお伝えする瞑想は
単なる気休めや一時的にリラックスするためのものではありません。
あなたが見失っていた「自分の奥にいる本当の自分」と再び出会い、
和解し、あなた自身の人生を生きるための瞑想です。
この瞑想を、ぜひ体験してください。
あなたは、本当に「自分の人生」を生きていますか?
世の中には、「成功」や「幸せ」の形を教えるメソッドがあふれています。
しかし、それらの多くは、「こうすればうまくいく」「これが理想の生き方だ」という誰かが作った価値観の中での話にすぎません。
「自主創生」とは、そうした外から与えられた価値観に縛られることなく、
自分自身の本質を知り、自ら人生を創り出していくことです。
私が提供するのは、「こうすれば成功する」という型にはめるものではなく、
あなたが 自分の心の奥にあるものを見つめ、
固定観念や感情のとらわれから自由になり、
本当の自由の中で自らの人生を選び取るための実践です。
そのために、カウンセリングを通じて一人ひとりに最適な瞑想法を提案します。
また、食事や生活リズム、思考のクセの見直しなど、
心と身体の土台を整え、自由へと向かう実践を築いていきます。
このアプローチは、単なる自己啓発やマインドセットの調整ではなく、
もっと根本的な変化をもたらします。
仏教の瞑想をはじめとするさまざまな技法を活用しながらも、
決して宗教的な枠にとらわれることなく、
他者から押し付けられた価値観や、自分自身の思い込み、
思考の枠組みといった、あらゆる制約から解放されることを実現します。
自主創生ガイドは、
「既存の価値観に適応する」のではなく、
「自分自身の本当の在り方を見つけ、そこから人生を創る」ためのものです。
あなたが、「自分自身の人生」を歩むために、その実践をお伝えしています。
あなたの場所へ、瞑想をお届けします。
企業の福利厚生や各種団体のリラクゼーションイベント、個人やグループでの瞑想体験会まで、私自身があなたのところへ伺い、瞑想会を開催いたします。
「瞑想に興味があるけれど、どこから始めたらいいかわからない」
「忙しい日常の中で、心や身体をリセットする時間がほしい」
「職場のチームワークや集中力を高めたい」
そんなご希望に応じて、それぞれの状況や参加者に合ったプログラムを組み立てます。
・個人向け出張瞑想
1名:10,000円(大阪府外は交通費別途)
・グループ向け瞑想会(4名〜8名)
1グループ:30,000円(大阪府外は交通費別途)
※それ以外の人数や、内容によって料金が変動しますので、詳細についてはお気軽にお問い合わせください。
※現在、大阪の「HOTEL TOYO」にて毎週日曜日に
世界各国からの外国の方を対象にした坐禅瞑想体験会を開催しております。
ここでは英語をメインとしたインストラクションを提供していますが、
日本語でのご案内ももちろん可能です。
(HOTEL TOYOでの瞑想体験会の様子は、インスタグラムにてご覧いただけますので、開催イメージとしてご参考にしてください)
⚪︎ Q. 瞑想はまったくの初心者ですが、大丈夫ですか?
A. 問題ありません。
この講座は、瞑想が初めての方でも基礎から学べるように進めます。
⚪︎ Q. 体が硬くて、長時間座るのが苦手です。
A. 体の柔軟性は関係ありません。
椅子に座っての指導も可能なので、無理なく取り組めます。
⚪︎ Q. 忙しくて週1で受講できないかもしれません。
スケジュールは調整できますか?
A. 受講の間隔は基本的に週1回ですが、
仕事や予定に合わせて柔軟に調整できます。
⚪︎ Q. オンラインと対面、どちらがいいですか?
A. どちらでも受講可能です。
オンラインでも、呼吸や意識の使い方を丁寧に指導できるため、
しっかり学ぶことができます。
ただし、座り方や姿勢の細かな調整が必要な場面では、
対面のほうがより適した指導ができることもあります。
⚪︎ Q. 申し込み前に、もう少し詳しく話を聞くことはできますか?
A. はい。
インスタグラムのDMやお問い合わせフォームから質問を受け付けていま す。申し込む前に確認したいことがあれば、お気軽にご相談ください。
⚪︎ Q. 複数人での受講はできますか?
A. 可能です。
友人や家族と一緒に受講することもできますので、
ご希望の人数をお問い合わせください。
⚪︎ Q. 料金の支払い方法は?
A. 現金または口座振り込みとなっています。
40代 会社員
私が当時働いていた会社でモラハラを受け精神的に追い詰められていた時、
ヤス先生の瞑想会がきっかけで瞑想講座を受講しました。
初回のカウンセリングの際、話しを聞いて頂くだけでずいぶん楽になりましたが、その反面、自分の心の奥にしまっていたものを炙り出されていくような感覚になり怖くて抵抗する気持ちがありました。
ヤス先生が導き出した私に合った内観の方法は、私が想像していた瞑想とは全く違って驚きましたが、それを実施することで会を重ねるたびに自分自身でその心の奥の原因が少しずつ見えて、自分の身に起こる様々な出来事も自分の中に原因があったことを冷静に知ることが出来ました。
最終日には恐怖心はなくなりとても力強く地に足がついた感覚がありました。不思議なことにその後すぐ会社でのモラハラはなくなりました。今は会社を辞めて独立し幸せな日々を過ごしていますが、今も日々の瞑想と、月に一度、ヤス先生の瞑想カウンセリングを続けております。
間宮靖貴
1980年 札幌生まれ
関西大学法学部 法律学科卒
関西学院大学大学院 司法研究科修了
東南アジア仏教(テーラワーダ仏教)のアビダンマ教学、
ヴィパッサナー瞑想を10年間学ぶ。
(グリーンヒル瞑想研究所・地橋秀雄に師事)
(西澤綜合研究所・西澤卓美に師事)
長野・開眼寺、山梨・恵林寺にて出家
京都・大徳寺、建仁寺にて禅僧として7年間修行
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すこし僕の話をしようと思う
世界と僕の交わりは、
自身のADHD(注意欠如多動症)とASD(高IQ自閉症)から来る
世界の普通が僕の普通ではない強烈な違和感から始まりました。
幼少期、
自分のなかで爆発する多動の衝動とそれを叱られ続けるストレスから、筆入れの中の鉛筆は常に嚙み砕かれ、酷いチック症のため首が折れるほど頭を後ろに振り倒し続け、教室でじっと座っていることさえも出来ない僕は、隔離教室に押し込まれて下校時間まで一人で過ごしているような異質な子供でした。
また、世界に規則や法則を見つけ出そうとする度を越えたこだわりは、出口のない「ねばべき思考」や「自分ルール」に転じていきました。
たとえばノートの表紙に名前を書こうとすると、理想上の完璧な筆跡と、現実に書いた筆跡との齟齬が耐えられずすぐに破り捨ててしまうため、僕の部屋の押し入れには表紙のない数百冊のノートが山と詰まれていました。
普通とはなにか。
自分が自分らしく生きるとはなにか。
ほんとうの幸せとはなにか。
ほんとうの自由とはなにか。
これが、今生で解決しなければ死んでも死にきれない、
僕の生涯のテーマとなっていたのです。
ほんとうの自由やほんとうの幸せを見つけなければという必死の努力から、僕の部屋の四方の壁は次第に、仏教経本、律・論、語録、聖書、論語、老荘、これらの注釈書、哲学書に森田療法、クリシュナムルティー、エックハルトトールetc...と、天井まで救いを求める専門書に埋め尽くされていきました。
同時に僕は、この生きづら過ぎる人生に身体からのアプローチによって何とか折り合いをつけれらないかと、空手、柔道、ボクシング、総合格闘技にも本格的に打ち込み、古武術、野口整体、西式甲田療法、アレクサンダーテクニーク等の身体的理論も必死で学び、実践していました。
自分の心と体からのアプローチだけでは納得がいかず、この人間社会を成り立たせる法則を知ろうと、大学、大学院と10年間かけて法律も学び
また自分の苦しさの正体に知的な障害があるのではとすら思い悩み、その真偽を確かめるため、在学中には知的障害者の施設で働きました。
けれど、そこで出会った入所者たちは、どれほど障害に不自由し大変な思いをしていても、家族や職員と心を通わせ、泣いて笑って地に足ついて自分の人生を生きていました。
これほど死ぬ思いで自由を追い求めていても、
自転車の前カゴに置いたケーキが箱の中で倒れでもしたときには、僕は自転車ごとそこらの壁や地面に何度も叩きつけ、自転車を破壊し、自分の顔面を形が変わるまで何度も殴り、自分に絶望し声を上げて泣いていました。
僕は、まだ自由になれなかったし、何が僕を苦しめるのかもわからなかったのです。
もはや僕は溺れて死んでしまうような気持ちでブッダに縋りつき、気が狂ったように瞑想にのめり込んでいきました。
最低限の衣食住にも支障を来しつつ、起きてる間はひたすら瞑想をするという日々を続けましたが、それでも世界と僕との間のズレが埋まる事はありませんでした。
「もう、打つ手はない。死ぬしかない。」
そう思ったとき、どうせ死ぬなら最後に、と僕は出家を決めました。
実家との縁を断ち、相続を放棄し、持ち物はすべて、壁一面の蔵書もあらゆる私物もボールペン一本さえ残さず処分して、着の身着のまま禅宗の門を叩いた僕は、晴れて禅僧となりました。
その日はとても天気がよかったことを覚えています。
ついに、ようやく、僕はこの道を歩むことで、あらゆる苦しみから離れた究極の場所に辿り着けるのだと、誰よりも強く握りしめ、狂気じみた熱意で修行しました。
この握りしめが、僕の人生のあらゆる場面で僕を縛りつけ苦しめていた本当の理由だと気がつくのはあと少し先でした。
僧堂の暮らしでは、厳しい修行とは裏腹に、言葉には出来ないほどのギャップを目の当たりにしました。
それでも、この道以外にもう自分を救う術はない、この道を極めなければ僕はもうどこにも行けない、そう自分を追い詰め、鼓舞し、修行を続けました。もう後には引けなかったのです。
この、絶えざるエンジンとブレーキを同時に踏み続けるような、心が真っ黒に焼け焦げる葛藤のなか禅僧修行7年目のある日、
きっかけは、今思えば小さなことだったような気がします。
その瞬間、ばさりと何かが僕の中で断絶され、僕は自分のなかで自分がこういうのを聞きました。
「もう自分を偽らなくていい。許します。
もう、大丈夫だよ。」
その瞬間、僕が必死にしがみつき握りしめていた最後の依存先——禅すらも、ただの概念でしかなかったことを知ったのです。
概念を立て、その後に世界を生きるこの生き方こそが苦しみのもとだ、と腹の底から納得し尽くしたとき、「自由」を求めてあらゆるものにしがみついていた僕は、そのしがみつく手を手放し、生まれて初めて何のフィルターもなく生の現実とつながることができたのです。
振り返ると——
幼少期からの苦しみも
万巻の書から得た知識も
研ぎ澄ませ続けた身体も
法律や施設で向き合った人の営みも
何十年もの瞑想と修行も
すべてを手放した先に、
すべてが自分自身となっていました。
手放したすべての経験は
僕自身の宝となったのです。
僕には、自分と和解し、
何ものにも縛られない自由と
何ものにも縋らない安心を得た経験があります。
そんな僕だから伝えられる話があります。
___
その後、宗教の枠に囚われない自由を得たことにより還俗。
現在は大阪にて、世界各国から集まる人々の人生と交わり、
語り、瞑想による自由を伝えている。